ヴィクトール・フランクルの著書『夜と霧』で、著者は強制収容所でこんな経験をしている。
それは離れ離れになった妻との、心の中でのコミュニケーションだ。
心の中で、著者が妻に微笑みかけると、彼女も微笑み返す。
愛している、と言うと彼女も同じ言葉を返す。
極限状態にいた著者は、妻との会話で生きるエネルギーを得、何とか収容所の生活を生き延びた。
著者曰く、妻は、確かに彼の心の中に存在していた。
別の収容所に送られた妻が生きているかどうかもわからない。
しかし、妻は、著者の中で生きていたのだ。
実際の世界での、妻の生死は全く関係がない。
妻が微笑んでくれた。著者にとってはそれでよかった。それで救われたのだ。
果たして、彼は極限状態にいたから、気がおかしくなったのだろうか。
実は、筆者にも同じような経験がある。
通勤電車の中で、我が子のことを考えるときがある。
頭の中で、我が子は、確かに筆者の問いかけに答えてくれる。
愛らしい笑顔で。
もちろん、それは筆者の脳が、過去の記憶に基づき、そうさせているのだ。
しかし、それで筆者はこの上なく幸せな気持ちになる。
そのとき、実際に我が子がこの世に存在しているかどうかは関係無い。
近年、人工知能が発達し、中には、著名な人物の発言も学習させたりしている。
その人工知能は、こちらの問いかけに答えを返してくれる。
その回答は、まるでその人物が言っているかのよう。
膨大なデータでうまく学習させれば、人工知能の応答は本物と遜色なくなる。
人はその人工知能と会話をして、その人物とコミュニケーションをとっているような気になれる。
存在する、というのは何だろうか。
我々が知覚している、この世界で生きていること。
それと、人々の心の中や、サーバの中で生きていること。
両者にどのような違いがあるのだろうか。
存在するということは何か。
これは、今後書きたい小説のテーマの一つだ。