この世の中に差別があってはならない。
それは皆の共通認識だろう。
しかし、もしかしたら仕方のない差別もあるのかもしれない、と最近思う。
差別は結局、自分を、仲間を、守るためにあるのだ。
人間の防衛本能の表れ。
差別をうまく活用することで、秩序が保たれ、社会が発展してきた部分はあるのではないか。
たとえばある組織があるとする。
太平洋に浮かぶ島の密林に住む人たちで、いくつかの家族が集団で暮らしている。
彼らは彼ら独自の文化があり、祭りに使う美術作品を多く生み出していた。
その文化の中で長い年月暮らしてきたし、彼ら自身、自分たちの文化を誇りに思っている。
あるとき、その組織を発見し、彼らに近づく者があった。
それは悪い人間たちの集まりで、その組織が保有する独自の美術品を売って大儲けしようとしたのだ。
集団の長は、そうとは知らず、その者と仲良くし、結果的に貴重なものをたくさん失ってしまった。
怒った長は、それ以後、他文化の人間との交わりを一切禁じた。
その文化を知るために、近づく者は他にもいたし、
中には、彼らの文化を守ろうという目的で近づく者もあったが、聞く耳を持たず、異文化の人間は須らく排除された。
そして世界は、その集団を、時代遅れの差別主義者と罵った。
果たして、悪いのは差別をしているその組織なのだろうか?
異文化と交流すれば、失われていくものはある。
文化と文化が交われば、それらが融合した新たな文化ができる。
元々の文化が持っていた精神が失われる虞もある。
それは江戸時代から明治時代にかけての日本もそうだった。
近代化により、多くの日本文化が失われた。
日本という国が、近代化に踏み切ったのだから、失ったことは自業自得だ。
しかし、例示したような自分たちの文化を守りたい組織にとって、差別することは正義だ。
太平洋の島国という例示をしたが、同じようなことは現代の日本でもある。
自分たちの精神を守るために、他者との交わりを避け、それをルール化して徹底させる。
周りから見ると、時代遅れの考え方なのだが、組織の人間にとってはそれが正義。
そういった考え方を持つ彼らを、我々が批判するのはどうなのだろうか?
差別は根絶すべきだと、我々は胸を張って言えるのだろうか。