誰かが笑顔になれば、他の誰かの涙が流れる。
こんな考え方がある。
つまり、誰かが幸せは、別の誰かの不幸の上に成り立っているという考え方である。
これはある意味で真理をついているように思える。
民主主義の社会は、富む者と富まざる者がいて、富む者は富まざる者から搾取することで潤う構造となっているからである。
さらに別の観点からいうと、人間は幸せを相対的なものさしで感じる生き物である。
つまり、他の誰かの不幸を見て、自身の幸せを感じるのである。
こういった背景を踏まえると、自分が幸せになりたいと願うことは、間接的に他人の不幸を願うということにもなり得る。
他人を不幸にする代わりに、自分を幸せにしてくれ、という願いなのだ。
もちろん、多くの人は、他人の不幸なんて願わない。
しかし、「幸せになりたい」という願いには、その言外に、「他人のことはさておき少なくとも自分は」という考えが含まれないだろうか。
そもそも皆の幸せを願うのであれば、「皆が幸せになりますように」と願うはずなのだから。
そういう意味で、自分の幸せを願うことは、独善的なことであり、筆者はどうしてもそこに醜さを感じてしまう。
しかし、だからといって、皆が幸せになりますように、とも願わない。
というのも、凶悪犯罪者や他人の不幸を食い物にする人など、不幸になるべき人も存在するだろうし、そういった人たちの幸せを願うつもりはないからだ。
そういうわけで、筆者は幸せについては願わないようにしている。
しかし冷静になってみると、筆者のこういう考え方では、受験での合格祈願すらできないことになる。
自分の合格を願うことは、他人の不合格を願うことにもなるからである。
なんとも生きにくい筆者の性格には自分自身辟易する。