本当の幸せというけれど

死が間近に迫った老人が、それまでの煩悩にまみれた生活を否定し、ようやく本当の幸せに気づく。

そんなストーリーの映画や小説を観たり読んだりしたことがあるかもしれない。

人々の感動を誘うヒューマンドラマだ。

その「本当の幸せ」とは、たとえば、家族との何気ない会話だったり、庭の花が咲いたことだったり。

一見すると地味なものばかりだ。

そして物語の受け手である我々は、「本当の幸せ」に共感し、心が洗われたような気持ちになる。

しかし、どうだろう。

その物語の受け手である我々は、その後、その「本当の幸せ」を求める人生を送るだろうか。

答えは、否だろう。

そうは言っても、美味しいものを食べること、裕福に暮らすことで心を満足させるのではないか。

多くの人が、「ささやかな幸せ」とは真逆のものを追い求める。

物語を通して、本当の幸せに気づけたはずなのに。

しかし、よく考えてみると、それは当然だ。

なぜなら、物語の主人公は、長い人生を歩み、気力も体力も衰えた状態で得られる幸せを求めているからだ。

もし主人公が、若々しくエネルギーに溢れていれば、もっと別のものに幸せを感じるはずだ。

要するに、本当の幸せとは、その人の心身の健康状態といった内的要因や、社会情勢や家庭環境などの外的要因の変化によって変わっていくものなのだ。

人生の終盤に差し掛かった人にとっては、家族との他愛もない会話で心が満たされるかもしれない。

しかし、やりたいことがたくさんある若者が、それで人生に満足するはずがない。

モテることや、物欲を満たすことが、その人の(その時点での)本当の幸せなのだ。

随分品がないが、その欲望を満たされないと満足できないなら、欲望を満たすことが本当の幸せといっていい。

(実際、全くモテなかったり、欲しいものが買えなかったら、惨めな思いをする。)

幸せとは流動的だ。

本当の幸せという究極的なものを求めるのではなく、今自分が幸せに思うことはなにか。

常にそれと向き合うのが、日々を楽しく生きるコツなのだろう。

 

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