聖書を読む

2ヶ月ほど前から、聖書を読んでいる。

 

教養のため、ではあるが、単に興味があるからである。

 

断っておくと、別にクリスチャンでもない。

だが何年も前にイギリスに住んでいたころ、友達を作るために教会に通っていたことはある。

 

そこで、彼らはなぜキリスト教に熱心なのか興味を持った。

 

熱心な信者の中には、ドラッグやDVに悩まされ、神を信じることで安らぎを得ている者もいた。

そういう人にとって、宗教が心の拠り所となるのは理解できる。

 

一方で、医者などの高い教養を備えた人が、全ての生き物は神が作ったという聖書の一

節を、本気で信じていることに驚いた。

科学的素養を持つ人が、進化論を真っ向から否定しているのである。

 

そういう体験もあって、いつか聖書を読もうと思っていた。

 

だが、なかなか手が出なかった。

 

というのも、大学生のころ一度手を出して挫折した経験があるからだ。

 

読んだことのある人ならわかると思う。

怒られることを覚悟していうが、とにかくかったるい。

同じ表現が何度も出てくるし、物語に矛盾もある。

読みにくいったらない。

 

それはわかっていた。

 

しかし、世界中で、人種を問わず、これだけ多くの人に読まれている書物はない。

特に西洋文化は、キリスト教の考えが下地になっているから、彼らの思想を本当に理解するための、必読の書と言ってよい。

 

そういうわけで、また手を出したのである。

 

まだ旧約聖書の5分の1(申命記の終わりまで)を読んだ程度だが、徐々にその文体にも慣れてきた。

 

ここまで読んで思ったのは、少なくとも、旧約聖書のみを神との契約書とするユダヤ教においては、行き過ぎた選民思想があるのではないか、ということだ。

物語中、神に選ばれた民であるイスラエル人は、神の教えに従い、占領した土地の民、すなわち異民族を殺しまくっていく。

 

その異民族は、たとえ全面降伏したとしても許される余地がない。

なぜなら、その土地は神がイスラエル人に与えられた土地であるから。

イスラエル人以外が住むことは許されないのである。

 

そして当のイスラエル人も、神の教えに反すれば、容赦なく殺される。

神の元を去ることも許されない。

 

 

少なくともここまで読む限り、旧約聖書はイスラエル人だけのものであって、万人向けのものではない。

これが、キリスト教とは違って、ユダヤ教が世界的に広まらない理由なのだ。

 

キリスト教の真髄を理解するためには、新約聖書を読まなければならない。

だが、新約聖書も旧約聖書を下地にしたものであるから、これを無視することもできない。

 

おそらく、両聖書を読破するのに1年くらいかかるだろう。

 

先は長いが、読み終えたら、また感想を書こうと思う。

 

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