香港旅行の思い出 その6

ベッドに横たわるS君の顔は苦痛に歪んでいた。

腰の痛みも増してきているようだった。
さらに血尿が出たという事実が、S君の心に大ダメージを与えたようだ。

もちろん、筆者やN君にとっても衝撃的な出来事であった。
二人とも、ただS君を見下ろすことしかできなかった。

「救急車を呼ぶか?」

思い出したようにそう訊くと、S君は黙って頷いた。
我慢強いS君がそう言うのだから、よほど痛いのだろう。

救急車の呼び方がわからなかったので、フロントに電話した。

英語で電話するだけでも緊張するが、そんなことは言ってられない。
拙い英語で、どうにかこうにか起こったことを伝え、なんとか救急車を呼んでもらえることになった。

最初、穴に落ちたと言ってもなかなか信じてもらえなかった。
冗談じゃないかと怪しまれたのである。
筆者もその対応を受けて初めて、穴に落ちることは香港でも稀なんだと確信した。

ホテルの従業員も部屋まで来て、4人で救急車の到着を待った。

途中、旅行保険の存在を思い出し、保険会社に電話をかけた。
電話口から聞こえて来た日本語で、どれだけ安心できたことか。
言葉が通じることが、こんなにもありがたいなんて思わなかった。

保険会社のオペレータは、日本語を話せる現地スタッフを派遣してくれると言った。
神。まさに神である。
本当に旅行保険に入っておいて良かった。

行く予定の病院(従業員が教えてくれた)をオペレータに伝えて電話を切ると、だいぶ心が楽になった。

やり取りを聞いていたS君の表情も少し和らいでいた。

命に別状はなさそうだ。
それに、現地スタッフも来てくれるし。

そう思いホッとした途端、筆者は無意識にあるものを探し出した。
ガイドブックだった。

明日から観光どうしよう。

そんな考えが沸き起こった。

もちろん、S君のことも心配である。
しかし、せっかくの旅行なんだから観光もしたい。

今のS君の状態だと、観光は難しいかもしれない。
そうなると俺たちはどうなるんだ。
二人だけで観光すればいいんじゃない?
せっかくの旅行なんだから。
その権利くらいあるだろう。

冷たい話である。
温かみのカケラもない。

ふとN君を見ると、どうやら彼も筆者と同じ気持ちだったようだ。
彼はガイドブックをパラパラと眺めていた。

筆者の気持ちは少し楽になった。
具体的に行動に移したN君より、まだ筆者の方が人道的だ。

ほどなく、救急車がやってきた。
筆者とN君も同乗した。

車内でも、事故が起こったときの様子について色々と聞かれた。
もちろん英語で、である。
あたふたしながら、ジェスチャーもふんだんに取り入れて懸命に説明した。
ここ一時間くらいで、何度冷や汗をかいたことか。

病院に運ばれたS君は、台車に乗せらせたまま、診療室に吸い込まれて行った。
残された二人は、言われたとおり待合室で待つことにした。

周りを見ると、他にも地元の人と思しき患者が何人もいる。
そんな中、特にすることもなく、二人はただただ待つしかなかった。

(続く)

 

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