筆者には甥がいる。
妻の兄の子供なので血は繋がっていない。
まだ3歳になったばかりなのだが、この甥が可愛らしい。
可愛らしすぎて、ずっと成長しなければいいのにとも思ってしまう。
こんな感情になるのは、筆者が子供好きというのもあるのかもしれない。
しかし、それを度外視しても、その行動が可愛い。
動物園に一緒に行くと、猫のふれあいコーナーで「こんにちは、猫さん」と大きな声で挨拶するし、「さよなら」も手を振りながら言う。
何せ笑顔が可愛いのである。一緒に遊んで笑顔を見たくなってくる。
この笑顔の正体は、「無垢さ」であろう。
世の中のことを何も知らないから、何にでも純粋に興味を持つし、何かを疑うということをしないから、その表情には悪意がないのである。
それが、筆者のような俗世間にまみれたような大人には新鮮に映るし、心が洗われるような思いがする。
混じりっけのない笑顔に、惹きつけられるのである。
しかし、その子大きくなるとどうだろう。
きっと魅力は失われていくだろう。
それはなぜか。
その理由は二つ考えられる。
一つ目は、大型化することにより外見的な魅力が失われるからである。
人はより小さいものを「可愛い」と思う傾向にある。
大型犬よりも小型犬の方が人気があるのと同じ理屈である。
二つ目は、知恵がつくために魅力が失われるからである。
知恵がつくと、思慮深く、また疑い深くなる。これが表情や行動に表れるのである。
笑顔が減り、猜疑心を持った目をする。
また、何にでも純粋に反応するということがなくなるので、その子が発するエネルギーも失われてしまう。
人はエネルギーがあるも者に惹きつけられるのである。
ここまでわかったところで、筆者はある仮説を立てたのである。
少し話が飛躍するが、単に思いついただけである。
適当に読んでほしい。
エデンの園に住むアダムとイブが、禁じられた果実を食べて知恵をつけたために、神の怒りに触れ園を追い出されるという旧約聖書の話がある。
知っておられる方もたくさんいるだろう。
前から不思議だった。
「なぜ神は知恵の実を食べることを禁じたのか?」
普通に考えると、馬鹿よりも知恵をつけた方がいいに決まっている。
何せ、知恵・知識がなければ自分で何も判断できないため、いつも見守ってやらねばならないから手がかかる。
にも関わらず、それを禁じていたのである。
そこで筆者が思いついた仮説は、
神はアダムとイブがめちゃくちゃ愛らしいと思っていた
というものである。
つまり、二人の純粋さに魅力を感じていたのである。
筆者が甥っ子を可愛いと思うように、神もアダムとイブの魅力にぞっこんだったに違いない。
ずっとこのままの二人でいてほしい。そう思ったのではなかろうか。
そしてそれ故、彼らが魅力を失ってしまわないよう、知恵の実を食べることを禁じたのではなかろうか。
完全な妄想であるが、そう考えると、神様も意外と人間味があるなと思えてきて、なんだかおかしい。