強さと無謀

多くの人は、常々、正しくありたい、と思っている。

周りに流されず、自分の頭で考えて物事の是非を判断する。

常にそうありたいと思っているのではないか。

幸いにして、今の時代は、自分の意見が取り入れられやすい。

多様性が受け入れられるようになってきたからだ。

多くの価値観が認められ、自分にフィットするものを選択できるようになってきた。

そういう意味で、確固たる価値観を持っている人には、生きやすい世の中になってきたのだろう。

他方で、それがない人には、少し辛いかもしれない。

多くの価値観があり、どれについていけばいいのか選択が難しくなっているからだ。

自分の意見がなくとも、どこかのグループに所属したいという願望は皆にある。

集団の中にいることで安心感が得られるからだ。

本当に強い人は、どんな時代でも、どんな境遇でも自分の意見を曲げない人だ、と思っていた。

今の世の中なら、この考えは正しいように思う。

しかし、時代が変わったらどうだろう?

たとえば、戦時中。

戦争に反対すると、非国民として目をつけられ、憲兵にしょっぴかれた。

あるいは、江戸時代の隠れキリシタン。

踏み絵を踏まなければ死が待っていた。

そういう状況で戦争に反対した人、踏み絵を踏まなかった人は、強い。

確か強いと思う。

だけどそれら強さは、無謀とも言えないだろうか。

無謀だと非難しているのではない。

命を捨ててまで自分の意見を通す必要があるのだろうか、という点だ。

果たして、戦地に赴いた人、踏み絵に足をかけた人は、弱い者として悩まないといけないのだろうか。

筆者が戦時中に生きていたら、戦地に赴いたと思う。

江戸時代のキリシタンだったら、踏み絵に足を置いたと思う。

やはり筆者は弱い人間だろうか。

常に正しくありたいと思うが、命を捨てたいとまでは思わない。

こう考える人間は、弱いだろうか。

 

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