人を好きになることに、幼い頃から違和感を覚えていた。
違和感というより、嫌悪感と言った方がいいのかもしれない。
自分が誰か他の人を好きになることが、嫌で嫌で仕方がなかった。
年頃になると、周りの友人たちは恋愛に色めき立つ。
しかし、筆者自身は何かそれが汚らしいもののように感じていた。
もちろん、誰かに淡い恋心を抱くこともあったのだが、極力それに向き合わないようにしていた。
当時、自分が何故そんな感情になるのか、理由がわからなかった。
性格が天邪鬼だから、周りと同調して恋愛に精を出すのが嫌だったのか。
あるいは、単に臆病だったから、人を好きになることで傷つきたくないという自己防衛本能が働いていたのか。
どちらも正しいような気がするが、自分の中でしっくりくる理由ではなかった。
しかし先日とあるネット記事を見て、自分が恋愛に嫌悪感を抱いていた理由がわかった気がした。
その記事はとあるテレビ番組内の一コマを紹介するものだった。
女性経験が妻しかないという神田伯山氏。そんな彼に対し、共演する滝沢カレン氏が、伯山氏の妻になるのは嫌だとコメントした。
カレン氏が言うには、旦那から新しい世界を見せて欲しいのに、なんで自分が新しい世界を見せる側にならないといけないのか、というものだった。
筆者はこの記事を見てなるほど、と膝を打った。
カレン氏のコメントは、つまり、人は自分に何かを与えてくれる人を好きになるということを示している。
例えば、人を好きになる典型的な理由である容姿のいい人を好きになるのも、その容姿を見ることで嬉しくなる、楽しくなる(自分の気持ちを良くしてくれる)からだ。
あるいは、容姿端麗の人と付き合うことで、一種のステータスを得られるからかもしれない。
優しい人が好きなのは、優しさを与えてくれるから。
お金持ちの人、頼りになる人も全て与えてくれる人だ。
考えてみれば当たり前の話だ。
一緒にいて楽しくも嬉しくもない人を好きになるはずがない。
そして裏を返せば、人間は、好きな人に対して、常に何かを求めているということでもある。
容姿が損なわれたら、優しさをくれなくなったら、その人に対する恋心はなくなるだろう。
おそらく、昔の筆者はそこに嫌悪感を持っていたのだと思う。
つまり筆者は、そんなエゴの塊とも言える恋愛の感情が許せなかったのだ。
好きだ好きだというけれど、一方的に相手が与えてくれるからじゃないか。
もしその人の人間性が変わってしまえば、その感情はなくなってしまう。
そんなの変じゃないか。
そんな他人依存の感情というものが、長男で、自分が抱えるトラブルは親にも相談せずに自分で解決してきた筆者には受け入れ難かったのだ。
人に甘えられない筆者は、誰かに甘える人間に対しても快い感情を持てないでいる。
いけないと思いつつも、昔からの感覚はなかなか矯正できない。
妻が甘えてくるのを心の底から歓迎できないのも、筆者がそんな潔癖とも言える性格を持っているからなのだろう。
妻のためにも直さなければいけない。