先日読んだエッセイが心に残っている。
日野原重明氏のエッセイだ。
とある雑誌に、氏が昔書いたものが再掲されたものだった。
何気なくページをめくっていたら目に止まったので読み始めたのだが、何度も読み返してしまうくらい魅力的な文章だった。
日野原氏といえば、105歳で亡くなるまで医師を勤め上げた人だ。
氏の仕事へのバイタリティはもちろん耳目を集めるが、医師としての長年にわたる経験で培われた「優しい眼差し」も魅力的だ。
その優しさが、氏の文章からも溢れ出ていた。
エッセイは、氏がとある男性から手紙で相談された内容から始まる。
手紙の内容を要約する。
愛する娘が自殺未遂により身体が不自由になり、以来20年以上入退院を繰り返している。
娘の世話は、身体的、精神的、金銭的にも辛く、自身の年齢のこともあって、将来を考えると絶望的な気持ちになる。
現状を打破できるいい知恵がないか、氏に請うものだった。
日野原氏は、この手紙の主に対して何か解決策を提示しているわけでも、エッセイの読者に相談しているわけでもない。
ただ、この手紙の主に対して心を痛め、この手紙をカバンに入れて持ち歩いているだけだ。
それ以上のことはしていないが、その行為が何とも優しい。
一方で氏は、手紙に書かれた文章にじっくり目を通し、差出人の力強さを感じ取っている。
絶望的な内容であるにもかかわらず、文章は淡々と書かれ、決して感情的にはならない。
一つ一つの文字も丁寧に書かれている。
氏はそこに差出人の強さを感じているのだ。
そしてその強さは、娘をひたすらに愛することから来ているものだと確信している。
先行きに不安を感じながらも、娘に対する揺るぎない愛情が存在することを、手紙から読み取っているのだ。
本当に優しい人だから、それを感じとれるのだろう。
その後エッセイは、幼い息子を誘拐された挙句、殺されてしまった外国人女性作家の話に移る。
後年その作家は、事件当時に自身が書いた日記を出版する。
それは、同じような悲しい経験をした人たちが歩む道を照らすためだった。
氏は、その作家の行動もまた、息子を愛する想いがもたらす強さだと述べている。
哲学者のエーリッヒ・フロムの著書「愛するということ」にこんな一節がある。
愛は、人間のなかにある能動的な力である。人をほかの人びとから隔てる壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。
(出展:「愛するということ」 エーリッヒ・フロム著 鈴木昌訳)
愛することさえできれば、どんなに困難でくじけそうでも、最後には笑えるのだ。
・・・要するに、KANの「愛は勝つ」はやっぱり名曲ということだ。