「トイストーリー」を映画館で観たのはまだ筆者がまだ小学生の頃だった。
今から約25年前。考えただけでゾッとするが、四半世紀も昔のことである。
従来のアニメとは全く異なる3Dアニメ。
ユーモア溢れ、感動を呼ぶストーリー。
すっかりピクサーの世界に魅了されてしまったのを鮮明に覚えている。
その後、トイストーリーシリーズは、1999年にトイストーリー2、
2010年にトイストーリー3が公開された。
特にシリーズ三作目の前作は、物語、3Dのクオリティともにシリーズ最高レベルで、
主人公含むオモチャたちが、大人になった持ち主アンディの元を離れ、
新たな持ち主ボニーに引き取られるまでを描いた大感動作になっていた。
子供の成長に従い、オモチャはいつか遊んでもらえなくなる。
これはオモチャの宿命であり、彼らが必ず最後に行き着く境遇である。
その宿命が訪れる様を、ハラハラとユーモアを交えて見事に描き、
最後は大団円を迎える。
まさにシリーズの終着点にふさわしい作品であった。
それだけに、トイストーリー4が公開されると聞いたときには
耳を疑わざるを得なかった。
トイストーリー3で終わりでいいじゃないか。
これ以上、何を描くことがあるんだ。
一体、続編で描きたいことは何なのか?
それを確かめるべく、筆者は映画館へ足を運んだ。
【注意!!】 以下、ネタバレになるので、観賞後読むことをオススメします。
今作のストーリーの概要は以下のとおりである。
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新しい持ち主のボニーに引き取られたものの、元の持ち主であるアンディのように、
あまり遊んでもらえず、寂しい思いを抱きながら日々を送る主人公ウッディ。
ある日、ボニーは幼稚園の体験入園で、ガラクタからフォーキーという人形を作る。
フォーキーを気に入ったボニーは家に持ち帰る。
それは、常にフォーキーを身の回りに置いておき、
いなくなると泣き出してしまうほどの気に入りようだった。
ボニーにとって、フォーキーはかけがえのない存在になったのだ。
ボニーは家族でキャンプに行くことになった。
しかし、その道中、フォーキーは車から飛び降りてしまう。
それを追ったウッディは、皆と離れ離れになる。
フォーキーを探し出したウッディは、彼を連れてキャンプ場へ向かうが、
途中寄ったアンティークショップで、そこに長年住むギャビー・ギャビーに
体内のボイス・ボックスを狙われる。
結局、フォーキーは人質に取られ、一人逃げ出したウッディだけが
キャンプ場近くの移動遊園地にたどり着く。
しかしそこでは、意外な再会が待っていた。
それは、かつての仲間(であり、恋人?)だったボー・ピープ。
何年も前に他の子供に引き取られたはずのボーは、
持ち主のいないフリーのオモチャとして、
キャンプ場に遊びにくる子供たちと日々遊んでいた。
ウッディは、ボーの助けを借りて、フォーキーを取り戻しに行く。
ボーと行動をともにすることで、誰にも所有されないことに
可能性を感じたウッディ。
ボーたちの助けによりフォーキーを助け出したウッディは、仲間たちの元を去り、
ボーと同様、誰にも所有されないオモチャになることを決心する。
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結末には、筆者も驚いた。
持ち主のボニーとかつての恋人ボーのどちらを選ぶか。
最終的にボーを選んだのであるが、これは今までのウッディからは
考えられぬ決断である。
それまでのウッディであれば、持ち主が絶対的存在。
たとえ相手にされなくても、持ち主を見守り、
さりげなく助けるナイトのようなところがあった。
そんなウッディが、持ち主の元を離れる選択をするのである。
しかも、誰か新しい持ち主を見つけるのではなく、
誰のものでもないフリーのオモチャになるのだ。
筆者は、ここが今作でピクサーが描きたかったところだったのではないかと思う。
前述したように、前作の最後、ウッディたちオモチャは
ボニーに引きとられることになる。
新たな持ち主が見つかって、一見大団円のように見えるが、ボニーは女の子である。
保安官という、男の子向けのオモチャであるウッディを大事に扱う保証はない。
前作を観た一部の人はここに一抹の不安を覚えたことだろう。
(事実、今作ではボニーはウッディをあまり大事にしてないことが描かれている。)
つまり、新たな持ち主が見つかったとしても、
真のハッピーエンドとは言えないのである。
誰かのオモチャになっても、幸せに過ごせるとは限らない。
前作まででも描かれているように、気に入らずに捨てられることだってあり得る。
誰かのものである限り、オモチャたちはこの運命から逃れることができない。
今作ではウッディをその運命から解き放つことがメインテーマだったのではないか。
前作までは、「誰かのオモチャになる=幸せ」という構図で物語が描かれていた。
しかし、今作では別の幸せな世界を提示し、そこに主人公を飛び込ませて、
将来に対する不安を払拭する。
それでこそ、観た人が本当に安心できるハッピーエンドになるはずだ。
これこそがピクサーの狙いだったのだと思う。
そして、ウッディが新たな世界へ飛び込む決断をするためのキーパーソン
となったのが、ボー・ピープである。
何せ、正義感の強いウッディだ。
簡単に持ち主の元を去るような性格ではない。
そこで、かつての恋人であったボーを登場させ、
ウッディとのラブストーリーの要素を取り入れることで
ウッディがボニーの元を去る納得感のあるストーリーにしたのだ。
ウッディのこの決断にあたり、もう一つキーになったのがボイス・ボックスだろう。
このボイス・ボックスは、ウッディの体の中に埋め込まれていて、
紐を引っ張ると「銃を捨てろ」等といった音声が再生される。
いわば、ウッディの売りの一つである。
これを、壊れたボイス・ボックスを持つギャビー・ギャビーに
狙われることになるのだが、ウッディは最終的にフォーキーを返してもらうことを
条件に、自分の大切なボイス・ボックスをギャビー・ギャビーに渡してしまう。
ここは、ウッディがどれだけボニー想いか
(フォーキーはボニーにとってかけがえのない存在になっていた)
を象徴するような場面でもあるが、しかしこれにより、
ウッディは完璧なオモチャではなくなってしまった
(いわば欠陥を持ったオモチャになった)。
それまでのウッディ(少なくともアンディが主人だった頃のウッディ)は、
持ち主に気に入ってもらうために自分の身に重きを置いていた。
若干潔癖症とも思えるくらい、身だしなみにこだわっていた。
それが、自分の売りであるボイス・ボックスがなくなってしまったのだ。
これは、確実にウッディに心境の変化をもたらしたと言えるだろう。
今作中でギャビー・ギャビーも気にしていたとおり、
オモチャにとって欠陥は大敵だ。
欠陥があると、持ち主に大事にしてもらえない。
オモチャにはそんな心理が働くのである。
一方、ボーも実は右腕が取れており、テープでつなぎとめて生活をしていた。
しかし、持ち主のいない彼女はそれを気にもとめない。気に止める必要もない。
欠陥を憂うことなく、むしろそれを楽しんでいるくらいだ。
このオモチャの欠陥は、ウッディを新たな世界(誰にも所有されない世界)
に誘う重要な要素となっている。
欠陥を持ったことで、ウッディが持ち主であるボニーの元を離れ、
同じように欠陥を持つボーと一緒になる(=新たな世界へ旅立つ)
選択をすることが、より現実味のあるものとなるのだ。
(欠陥を持った状態で、もともと大事にされていなかったボニーの元に帰っても
仕方ないという心理が働くのは自然である)
総じて、前作で終えておいても十分であるところ、あえて続編を作るだけあって、
やはり脚本もユーモアもよく練られた作品だった。
筆者は今作の必要性、結末について納得したが、もしかしたら観た方の中には、
結末に反対意見を持つ人もいるかもしれない。
しかし、いずれにせよ一級品のエンターテインメント作品でることは間違いない。
おそらく、これ以上のハッピーエンドが思いつかないことから、
今回が本当にシリーズのラストとなる可能性が高いと思う。
シリーズを制作したピクサーに敬意を表するとともに、お礼を言いたい。