「分人」という考え方がある。
作家の平野啓一郎氏の著書で知れ渡った言葉だが、要するに、人は相手によって違う顔を見せるが、どの顔(どの人格)も本物の自分である、という考え方である。
これは一理あるだろう。
たとえば、職場の部下はAさんのことを「優しい」と評する一方、Aさんの子供はAさんのことを「怖い」と評することがある。
これは決して矛盾しているわけではなく、Aさんは「優しさ」と「怖さ」の両方を併せ持つ人で、相手との関係や立場によって表に出る人格が違うというだけのことなのだ。
だから、たとえば巷に溢れる偉人伝は、まるっきりそのまま信用してはいけない。
そもそもそういった逸話には尾ひれはひれが付きものだということもあるが、その類の話は、概してその偉人の一側面を言い表しているに過ぎないからだ。
では結局自分とは一体どういう人間なのだろう。
勘違いして欲しくないが、相手によって見せる顔が違うからといって、その人の人格が定まっていないというわけではない。
筆者が思うに、人はそれぞれ人格の普遍的な部分である核というものを持っており、他人に見せる人格というのは、その核の一部にお化粧したり、隠したりした結果ではないかということだ。
おそらく、たとえどんなに親しい相手であっても、核そのものを他人に見せることは決してないだろう。
人格の核というのは、言い換えれば、自分の欲望をむき出しにしたものである。
自分の趣味嗜好の全てを親や子供に見せる人間などいないだろうし、夫婦の間にも多少の遠慮はあるものだ。
どんなに親しい人でも言えないことはある。
またそれを言わないことで、相手と良好な関係を築ける。
そういうわけで、自分の核を知り得るのはその本人しかいない。
そしてそれを見ることができるのは、自分が一人きりのときだ。
一人でぼんやりしているときに考えることや、ふと浮かんでくることと向き合うことが、自分の核と対話をすることになる。
そして、自分の核と向き合うことは、自分を大切にすることに等しい。
お化粧をしたり、隠したりすることで、人は多少の無理をしているからだ。
頑張って核を化粧したり隠したりすると、人格が疲弊してくる。
ひどい時には、何が本当の自分なのかわからなくなってくる。
自分の欲望と向き合うことは、そういった疲れをとり、ケアすることになるのだ。
だから、一人の時間というのは、とても大事なのだ。