人類の歴史の中には、数多の偉人が存在する。
時代時代で一際輝くその人たちは、人類に多大なる恩恵をもたらしたことで後世に語り継がれている。
現代の我々は、そのような伝記物語を読み、それに感銘を受け、そんな大人になりなさいという教育を受けてきた。
そのせいか、特にネット社会と言われる現代では、耳目を集める有名人には聖人君子のような立ち居振る舞いが求められる。
有名人には大衆の理想の姿が反映され、彼らのイメージから外れたような言動をとると、たちまちバッシングの対象になる。
少しでも利己的な行動をしようものなら、すぐにマスコミの餌食になる。
しかし、そもそも聖人君子を求めるのが間違っている。
ガンジーのように、自分の富や地位を投げ打って(元々彼は弁護士だった)、国のため、他人のために身を粉にして活動できる人間というのは、ほんの一握りである。
そして、世間の人々は彼らに対して少し誤解をしている。
というのも、そもそも聖人君子と言われる彼らも、元々は自分の本能にしたがって生きていた人が多いのだ。
ガンジーも若い頃は素行が悪く、盗みをしたり、ヒンドゥー教の戒律を破って肉食を繰り返していたと言われている。
彼が弁護士になれたのは、名家の生まれで、イギリスに留学させてもらえたからである。
つまり、人々はいきなり聖人君子にはなれないのだ。
生まれながらのガンジーはいない。
本能のまま生き、悪さや遊びを十二分に尽くした人の中のほんの一部が、改心してガンジーのようになると考えて良い。
だから、金に強欲である、人を貶めて楽しむ、倫理に反して肉欲を求める人は、ある意味でガンジー途上の人なのだ。
もちろん改心の保証などないが、何も求めずぼんやりと生きている人より、ガンジーになれる確率はずっと高い。
おそらく、彼らは己の欲望が十分に満たされてから気づくのだろう。
欲を満たしても虚しいだけだ、と。
そして、欲望が自分の内側ではなく外側、つまり他人(社会)の方に向かっていくのだ。
他人のために生きようという考えは、一度でも自己が満たされない限りは芽生えない。
常に困窮し今日生きるための日銭を稼ぐ人、愛情を与えられたことのない人、いつも何かを欲している人は、他人のために生きようとは思えない。
精神の土台が必要なのだ。
さて、こう考えると、筆者が今FXに打ち込む理由も前向きに考えられる。
FXをする動機が、金銭的欲望を満たすためであることを筆者は否定しない。
少しでもお金を稼ぎ、生活の足しにしたいのは事実。
しかし、そんな金欲に塗れた筆者は、実は偉大なガンジーになる可能性を秘めているのだ。
つまり、FXで成功すれば「日本の父」になれることだって夢じゃないということだ。
これは、大いなる可能性である。
自信を持って今後もFXに励もうと思う。
#話半分に聞いてください。
#日本の父ってなんだよ。