筆者は関西出身である。
関西と言っても、中心地ではなく外れの方にある。
滋賀県である。
滋賀というと、関西では何かと馬鹿にされる対象である。
関西の外れ。
え、そもそも関西?
昔は京都より西(正確には、滋賀の西にある逢坂の関より西)を関西って言うたみたいやで。
じゃあ滋賀って関西ちゃうやん。
ていうか、琵琶湖以外に何もないやん。
こんな具合である。
筆者は必死に主張する。
関西テレビが映るから、滋賀も関西や、と。
(ちなみに、琵琶湖以外に何もないという揶揄については特に反論はしない。間違っているとも言えないのである。)
前置きが長くなったが、上記のとおり筆者は関西出身で、関西ローカルのテレビも多く観てきた。
そのため、(たとえ関西の外れの方だったとしても)上方文化の影響を濃く受けている。
すなわち、笑いのツボも関西人と同じなのである。
関西では、最後は何でも笑って終わる、という不文律がある。
悲しい、辛い話題でも、最後は笑って終わるのである。
悪口を言われても、笑いで終わらせて嫌な後味を残さない。
不幸を笑い飛ばす。
関西人がよく使う表現である。
関西人である筆者は、小さな頃からこれが正しいルールだと思っていた。
もちろん、すべての場面でこれができるわけがない。
葬式などが例外であるのは言うまでもない。
可能な限りである。
そしてこれが全国共通のルールであるとも思っていた。
そんな筆者は上京後も、可能な限り暗い話題でも明るく振舞ってきた。
落ち込んで相談してきた人に対して、元気が出るようにと笑い飛ばす。
たまに苦笑いしている人もいたが、筆者は気にしなかった。
その人の考えが間違っていると思っていた。
自分の方が間違っていたと知ったのは、上京して十年が経とうかという頃である。
まだ結婚する前の妻と浅草に行ったときの出来事である。
彼女が行きたがっていたお店で天丼を食べ、満足して浅草寺でお参りをした。
お参りを終えて境内の中を歩いていると、おみくじが売っている。
これはいいと、彼女と一緒に買ったのである。
結果、
筆者:吉
妻:凶
所詮おみくじである。
まじないのようなものと思っていた筆者だが、妻はそうは思っていなかった。
彼女は顔を引きつらせている。
そこで筆者は、嫌な空気を消そうと「残念だったね」と笑い飛ばしたのである。
しかし、これがマズかった。
途端に彼女は怒り出したのである。
私がどんな気持ちかわからないの。
人の不幸を笑うなんて感覚、信じられない。
冷たい。
あなたが信用できない。
これはまずいと思った筆者は、懸命に弁明した。
おみくじなんて信用するな。
そんな不確かなものを気にしたってしょうがないじゃないか。
こんなのは笑い飛ばして忘れた方がいいんだ。
しかし、彼女は聞く耳を持たない。
怒りは収まるどころか増幅するばかりである。
今にも暴れだしそうな勢いである。
思えば、このときから妻の性格の片鱗が見えていたわけである。
この経験を通じて、笑い飛ばすのは、関西以外ではやらない方が良いと知ったのである。
文化の違いは時として、隣人との間に大きな溝を作りかねない。
イスラエルのパレスチナ問題さながらである。
ちなみにこの一件、妻は未だに根に持っている。
喧嘩をするたびに蒸し返され、なかなか友好的な関係を築けない。
歴史的遺恨が外交問題をこじらせる一つの好例(?)である。