エッセイをはじめる

エッセイをはじめてみようと思う。
突然であるが、そうすることにする。

なぜエッセイなのか。
プロフィールに物書きを目指すと書いているが、エッセイストを目指しているのか。

そうではない。

エッセイを選んだ理由は一応ある。
しかし個人的な理由であって、読者にとっては、たいした理由ではない。
あんたは物書きを目指しているんだから、早く作品でも書きなさい。そう言われても仕方ない。

しかし筆者にとっては死活問題の理由がある。
だがあくまでプライベートな理由なので・・・

お叱りがきそうである。
無駄な文字を重ねて恐縮である。

エッセイとは、平たく言えば、自身の心の内を散文形式で綴った文章だと理解している。
心情を端的に記した詩や、個人の意見を述べる評論文でもない。
思ったことを、徒然なるままに書いたものがエッセイである。

エッセイとは、音楽に例えるとジャズである。
即興で思うがままに音を奏でるあの感じ。
クラシックでもロックでもない。
あくまで個人的な見解である。

さらに個人的な見解であるが、エッセイは読者の心を明るくするものである。
多くの場合、クスリと笑わせる効果も有している。

それが重要なのである。

何を言いたいのかというと、筆者にはユーモアのセンスが必要なのである。

少し説明させてもらう。

筆者には結婚して二年の妻がいる。
自分で言うのもなんであるが、愛らしい妻である。
赤面ものだが、筆者がそう思うのだから仕方ない。

しかしこの妻がとてもキビシイ人なのである。
筆者の声が暗ければ口を震わせて怒り、表情が冴えなければ鬼と化す。

常に明るくしてほしい。

妻が筆者に望むことである。
内向的で孤独を好む筆者にとって、常に明るくするとは、ジョギングしながら一日過ごすのと同じような状態なのである。

ラテンの血が身体に流れていれば。
そう思うこと、しばしばである。

そんな妻が筆者にいつも言うことがある。

「あんたの話は全然面白くない」

これまたキビシイのである。
単に面白くないのではない。全然面白くないのである。全否定である。
果たして、そんな人間などいるのだろうか。そんな疑問すら湧いてくる。

話がつまらないのは自覚している。妻が望むように面白い話をしてあげたい。
しかしうまくできないのである。しゃべくりの才能がないのであろう。
日々ダメ出しをされ、辛い思いをしているのである。

この気持ち、世の女性たちに伝わるだろうか。

エッセイを書くのは、自分を鍛えるためである。
端的に言うと、面白い人間になりたいのである。

そんなことより早く作品を書け。ライバルたちに遅れをとるぞ。
わかっているのである。

しかし、物書きになるよりも、まず達成しなければならない目標があるのである。
このままでは、私生活が安定せず、書ける作品も書けない。

そういうわけで、エッセイをやってみる。

いつやめるかわからない。
筆者が面白い人間になったら、きっとやめるだろう。
もしくは、その前に筆者が飽きてしまう畏れもある。

少なくとも、エッセイが続く限り、筆者と妻の関係は上述のとおりであると解していただいて、おおよそ相違ないと思う。

そういうわけで、暖かく見守っていただきたい。

 

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